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《豆知識》 |
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1.有磯海と越の潟 |
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2.伊能忠敬と越中 |
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【有磯海(ありそうみ)】 黒部四十八が瀬とか言うが、その他数知れぬ川を渡って、那古(なご)という浦に出た。くの担籠(たご)の藤浪は、いま春ではないとしても、初秋の風情も訪(おとな)うべき値打ちがあろうものをと、人に尋ねると、「これより五里磯伝いして、向こうの山陰に入り、漁師たちの粗末な小屋が少しばかりだから、芦(あし)の一節(ひとよ)ではないが、一夜の宿かす者もあるまい」と言いおどろかされて、行くのをあきらめ、加賀の国にはいった。 稲の香や分け入る右は有磯海 「はや早稲の香が立ちこめる中を、垂れ下がった穂を分けるようにして行く、その右手には、古歌に名高い有磯海が望み見られる」芭蕉は7月十三日に市振を立って、越中にはいった。国境にある堺村には、「加賀の番所有り」と、曾良(そら)の『随行日記』にでているいよいよ待望の加賀にちかづいたというより、一歩踏みこんだという気持ちがあった。越中は呉羽山を境にして呉東と呉西とに分れ、呉東は前田の分家十万石の領地であり、呉西は金沢藩百万石の直轄地である。 この日は滑川(なめりかわ)に泊まり、あくる十四日の快晴を、放生津潟へやってきた。大伴家持の歌で知られた歌枕で、越の潟ともいい、それから西が奈呉の浦だ。芭蕉は氷見まで行って、やはり家持が詠んだ、田子の藤浪の名所も見たかったのだが、遠いので断念した。そして新湊から海岸をそれて高岡へきた。・・・(中略)那古の浦は今富山県新湊市(現 射水市)堀岡町の海岸を那呉の海といい、放生津潟を那呉の江という。延喜式には「亘理湊(わたりのみなと)」とあり、もとここは八幡宮領で、礼祭に放生会(ほうしょうえ)を行ったので放生津という名が起こった。 東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人(あま)の釣する小船漕ぎかくる見ゆ |
−「地図の記憶」竹内慎一郎著(桂書房) 伊能忠敬・越中測量記より抜粋ー【放生津の一夜】 ・・さて、放生津の宿舎について『越中の絵図』には次のように書かれている。《越中の加賀藩の放生津では、八月三日(注)の夜、忠敬らの一夜の宿を仰せつかった。宿は、町方役人の柴屋方と定められたが、幕命を帯びるこの客人をどのようにもてなすべきか、大変気をつかったらしい。早苗藤作氏の報告によると、あちこちと聞き合わせた結果、宿の主人は次のように決定し、その記録がいまも残されている。 (注)太陰暦八月三日は太陽暦では九月九日(月)と考察される。 |